熊本中学生暴行の加害者に反省なし?逆・被害届が悪手である理由
2026年1月、熊本県山都町立矢部中学校の生徒が起こした暴行事件。
SNSでバカみたいに拡散されたこの動画をみて、多くの人が胸を痛めた。
首を◯められ、殴られ、蹴られ、怯える少年の姿。
それを笑いながら撮影する加害少年たち。
獲物を追い詰めるような、むき出しの暴力がそこにあった。
「なぜ、こんな残酷なことができるのか」と、多くの人がそう思ったのではないだろうか。
【速報】熊本の集団リンチ事件で逮捕された加害生徒、逆に被害届を提出
— DEATHDOL NOTE (@DEATHDOL_NOTE) January 31, 2026
ところが事態は、予想外の方向へ動き出す。
暴行をふるっていた加害者側の少年が、逆に被害届を提出したのである。
「自分もケガをした」という相互暴行の主張、そして動画拡散による精神的苦痛を訴えたとも言われている。
「なるほど、そうくるのか…」
殴った側が殴られた側を訴えるというのは、一体どういう神経なのか理解に苦しむし、正直、これは「悪手」ではないのか。
本記事では、なぜそれが加害者側にとって悪手なのかをわかりやすく解説していこうと思う。
目次
熊本中学生暴行の加害者が被害届で波紋
SNSで拡散された熊本の中学生暴行動画。
これを見た多くの人がショックを受けたと思う。
うずくまっている被害者の少年を、もう一人の少年が容赦なく暴行する。
大勢の少年たちがそれを囲む中で、加害者側の少年が殴打、顔面を狙った足蹴り、そして嘲笑。
動画は瞬く間に拡散され、世間の怒りに火をつけた。
「これはいじめじゃない、犯罪だ」という声が殺到し、学校や教育委員会への抗議が相次いだ。
警察も捜査に乗り出し、加害者は傷害容疑で逮捕された。
殺人未遂容疑の被害届も受理され、勾留20日間が経過中である。
共犯の特定も進み、現場で撮影・煽っていた生徒の親が休職、当の生徒が退学という動きも出ているそうだ。
そんな中で飛び込んできたのが、加害者側の被害届提出のニュースだった。
世間が呆れたのは言うまでもない。
殴っておいて、晒されたら被害者ぶる。
世間がこれを「反省なし」と断じるのは、当然の反応である。
SNS上では「盗人猛々しい」「加害者の神経が理解できない」といった声があふれた。
署名活動が数万件集まり、世論の怒りはさらに過熱しているという。
事件への関心はむしろ高まり、収まる気配がない。
被害届という法的手段を使うこと自体は、確かに権利として認められている。
しかし、タイミングと状況を考えれば、これがいかに的外れな行動か、火を見るより明らかだろう。
暴行の事実は動画に記録されている。
殴った側が「自分もケガをした」と訴えても、世間の目には言い訳にしか映らない。
それとも、加害者側にあの動画を覆す以上の切り札でもあるのだろうか。
むしろ、この被害届によって、加害者への風当たりは一層強くなったことはたしかだ。
「反省していない」「自分のことしか考えていない」という印象が、決定的になってしまったのである。
冷静に考えれば、この行動が加害者自身の首を絞めることになるのは容易に想像がつく。
この時代、暴力は自滅するだけなのだ。
加害者側の被害届が「悪手」となる理由とは?
加害者側の被害届は、自分を守るための行動だったのかもしれない。
親の必死さはわかる。
子どもの将来が心配で、弁護士にすがるのも無理はない。
でも、このSNS時代に「殴った側が被害を訴える」は、現段階においては通用しないように思う。
昔のいじめなら「両成敗」で済んだかもしれないが、今は動画が全部残るので逆効果でしかないのだ。
ここでは、なぜこの被害届が「致命的な悪手」になるのか、4つの理由を挙げてみよう。
①「反省なし」とみなされ少年審判で厳罰化する恐れ
少年事件において、家庭裁判所が最も重視するのは「反省の有無」である。
これは少年法の理念に基づくもので、更生の可能性があるかどうかを見極めるための重要な指標となる。
暴行事件を起こした少年が、被害者や社会に対して真摯に謝罪し、自分の行いを悔いているかどうか。
この姿勢が、処分の軽重を左右すると言っても過言ではない。
いまSNSを中心に渦巻く世論も同じである。
ところが、加害者側が被害届を出すとどうなるか。
裁判官や調査官の目には、「自分の非を認めていない」「被害者意識を持っている」と映る可能性が極めて高い。
反省どころか、逆に被害者を攻撃しようとしている。
そう判断されれば、保護観察で済むはずだった処分が、少年院送致に格上げされることも十分ありうる。
少年審判は非公開で行われるため、世間の声が直接影響するわけではない。
しかし、結局は裁判官も人間である。
社会的な反響を完全に無視することは難しいし、何より証拠として残る動画の存在が重い。
今もSNSで「少年院送致濃厚」との声が飛び交う中、反省ゼロの印象は致命的だ。
暴力をふるっておきながら被害者ヅラをする少年に、「更生の見込みあり」という判断を下すのは、相当に困難だろう。
通用しないと考えるのが普通なのだ、ほんとに。
②動画証拠との矛盾が「虚偽」と判断されるリスク
被害届を出すということは、何らかの被害を主張するということである。
「自分もケガをした」「動画を晒されて精神的苦痛を受けた」といった内容が想定される。
しかし、そもそもその動画には何が映っているのか。
加害者自身が、無抵抗となった被害者を殴り、蹴り、笑っている姿である。
つまり、被害届の前提となる「晒された動画」は、加害者の違法行為を記録した証拠そのものなのだ。
自分が犯罪行為をしている映像を拡散されたからといって、それを「名誉毀損」と主張するのは、論理的に無理がある。
刑法上、名誉毀損が成立するのは「事実を摘示して名誉を毀損した場合」だ。
しかしその事実が真実であれば、公益性が認められる限り違法性は阻却される。
簡単に言えば、本当のことを暴露されても、それが社会的に意義のある告発であれば、罪にはならないということである。
暴行動画の拡散は、まさに「社会的に意義のある告発」に該当する可能性が高い。
加害者の主張が「虚偽」と判断されれば、逆に悪質な行為として認定されかねない。
被害届を出したことが、かえって自分の立場を悪くする典型的なパターンである。
この時代、暴力の証拠は消えない。
だからこそ、そもそも暴力的な行動は許されないのだ。
③世論を敵に回したことで社会的更生が困難になる点
少年事件は、法的な処分が終われば全てが終わりというわけではない。
加害者は、その後も社会の中で生きていかなければならない。
学校に戻るのか、転校するのか、進学や就職はどうなるのか。
少年院を出た後の人生は、むしろそこから始まると言ってもいい。
2026年は、そういう時代の始まりだと言っても過言ではない。
ところが、今回の被害届によって、加害者は完全に世論を敵に回してしまっている。
SNSでは加害者への批判が収まる気配がなく、特定情報が飛び交い続けている状態だ。
社会的更生の道は、ほぼ閉ざされたと言っていい。
もちろん、ネット上の私刑は望ましいことではないし、過度な晒しは別の問題を生む。
しかし、加害者自身がその火に油を注いでしまったのも事実である。
もし被害届を出さず、真摯に反省の姿勢を示していれば、世論の怒りは徐々に鎮静化していたかもしれない。
「若気の至りだった」「きちんと償っている」という声が出てくる余地もあっただろう。
その可能性を、加害者は自ら潰してしまったのだ。
社会的更生とは、周囲の人々に受け入れてもらうことで初めて成り立つ。
世論を完全に敵に回した状態で、それが可能になるとは思えない。
昔なら「時間が解決する」で済んだかもしれないが、今は違う。
デジタルタトゥーは消えない。
その現実をもっと重く受け止めなければいけない。
④加害者の「不誠実さ」が賠償額を上げる現実
刑事処分とは別に、被害者側は民事裁判で損害賠償を請求することができる。
暴行による怪我の治療費、精神的苦痛に対する慰謝料、場合によっては将来の逸失利益まで。
被害者が受けた損害の全てを、金銭に換算して請求するのが民事裁判である。
この民事裁判において、加害者の態度は賠償額に大きく影響する。
謝罪し、反省し、誠意を見せている加害者と、開き直って被害届まで出す加害者。
裁判官がどちらに厳しい判断を下すかは、言うまでもない。
過去の判例を見ても、加害者の「不誠実な態度」は慰謝料の増額事由として認められている。
被害者の精神的苦痛を増大させた、という認定がなされるからだ。
暴行を受けた上に、加害者から逆に訴えられる。
被害者の心理的負担は、計り知れないものがある。
民事では、被害者のPTSDや入院費に加え、加害者の態度で慰謝料が跳ね上がる可能性が大きい。
今の炎上具合を見れば、逃げ場はない。
弁護士費用や裁判費用も含めれば、加害者側の経済的負担は相当なものになるはずだ。
短期的な自己防衛のつもりで出した被害届が、長期的には自分の首を絞める。
これが、悪手と呼ばれる所以である。
熊本中学生暴行事件を風化させないために
加害者が被害届という攻撃手段を使っても、真実は一つしかない。
動画に映っているのは、紛れもない暴力の記録である。
どんな言い訳をしても、その事実が消えることはない。
この動画を見て、胸を痛めた人は多いと思う。
自分がいじめられた経験を思い出した人もいるだろうし、我が子の安全を心配した親御さんもいるだろう。
ニュースを見るたびに気持ちが沈んで、しばらく立ち直れなかったという声も聞いた。
その気持ちは、とても大切なものだと思う。
他人の痛みに共感できるということは、人間として当たり前のことでありながら、実はとても難しいことでもある。
加害者たちに欠けていたのは、まさにその想像力・共感力だった。
だからこそ、私たちがこの事件を忘れないことに意味がある。
風化させないことで、同じような悲劇を防ぐ力になれるかもしれない。
声を上げ続けることで、被害者が「一人じゃない」と感じられるかもしれない。
被害者の少年が、今どんな気持ちでいるのかはわからない。
でも、世の中には味方がいるということ、卑劣な暴力は絶対に許されないということ、それだけは伝わってほしいと思う。
加害者の被害届という理不尽な行動に、怒りを感じるのは当然だ。
怒りは大事である。
でも、それを「いじめは犯罪」という空気に変えていくのが、今の私たちにできることだと思う。
いじめを許さない社会を作ること。
被害者が安心して暮らせる環境を整えること。
子どもたちが暴力以外の方法で問題を解決できるよう、大人がサポートすること。
私たち一人ひとりにできることは、決して大きくないかもしれない。
でも、無関心でいないこと、忘れないこと、それだけでも意味はある。
この記事を読んでくれた人の中に、心を痛めている人がいるなら、こう伝えたい。
あなたの感じた痛みは、正しい感情だ。
そして、その感情を持っている人は、あなただけではない。