路上で動画配信中の女性を刺し殺した高野健一に、東京地裁が言い渡したのは懲役16年だった。

検察の求刑は20年だったから、4年削られた計算になる。

普通なら「甘すぎる」という声が上がりそうなものだ。

ところが判決のあとに大きく広がったのは、むしろ逆の声だった。

「たった4年しか引かないのか」

「16年は重すぎる」

という、高野健一のほうへ向けた同情である。

殺人事件で、だ。

 

今回は、なぜ加害者にここまで同情が集まってしまうのか、そしてその同情がどうも男性の側に偏って見えるのはなぜなのかを書いていこうと思う。

高野健一への情状酌量論はなぜ広がったのか

事件そのものの経緯は、以前に書いた記事で詳しく扱った。

高野健一が配信を通じて知り合った女性へ250万円あまりを貸し、民事裁判で勝ったのに戻ってきたのは3万円だけだった、という金銭トラブルが背景にある。

そのあたりを知りたい方は、こちらを読んでもらえたらと思う。

https://taichimaster.jp/takadanobaba-liver-case

 

今回の判決で驚いたのは、裁判所そのものが「相応に同情する余地はある」と口にしたことだ。

好意につけこまれ、求められるまま多額の金を貸し、心理的に追い詰められていった——判決はそう認定したという。

その一方で、少なくとも55回にわたって刺し、声が途絶えたあとも配信状態のスマホで顔を撮影したという行為については、尊厳を踏みにじるものだと厳しく非難している。

 

つまり、この判決は最初から二つの顔を持っていた、ということになる。

  1. 残虐さを断罪する顔
  2. 動機に同情を示す顔

ネットが後者だけを大きく持ち帰ったのは、たぶん自然な流れだったのだろう。

 

実際、判決が出た日のネットには、こういう声が並んでいた。

「被害者やぞ」と書かれているのは、殺されたほうではなく、殺したほうである。

この一行に、いまの空気がかなり凝縮されている気がする。

もちろん、彼らが「殺してよかった」と本気で言っているわけではない、と思っている。

これは単に『怒りのすり替え』だ。

彼らが反応を示しているのは、その手前にあった「どうにもならなさ」のほうである。

高野健一擁護はなぜ男性に多いのか

ここから先は、僕がネットを眺めていて感じたことが土台になる。

誰かが男女別に集計してくれているわけではないので、あくまで僕の観測範囲での話だと思って読んでほしい。

まず、高野健一を庇う言葉を書いているのは、どうも男性のほうが目立つ。

なぜ、男性ばかりがあの男を庇うのだろうか?

その言葉をよく読んでいくと、庇っているのは犯行ではなく、まったく別のものだということが見えてくる。

 

司法で勝っても救済されない無力感

高野健一は、泣き寝入りをした男ではない。

ちゃんと裁判を起こして、ちゃんと勝っている。

それなのに、戻ってきたのは3万円だけだった。

 

民事で勝つというのは、要するに「返しなさい」と書かれた紙をもらうことである。

相手に返す気も金もなければ、その紙は本当にただの紙で終わってしまう。

法を頼るという一番正しい手続きを踏んだ人間が、一番何も得られずに終わる——この構図が、多くの男性の古傷を刺激したのだと思う。

 

正直、この仕組みのほうもいい加減どうにかならないのか、と言いたくなる。

勝訴判決が紙切れになるのを放置しておいて、絶望した人間が暴れたときだけ「法で解決しろ」と説教するのは、さすがに虫が良すぎると思ってしまうからだ。

これがかなり広く拡散されていた。

裁判所より刃物のほうが効く、と言っているに等しい投稿が支持を集めてしまうあたりに、この件のややこしさが出ている。

 

「もし自分だったら…」と自己投影する心理

配信やSNSに小銭を落とした経験のある人は、いまや相当な数にのぼる。

投げ銭にしろ、ガチャにしろ、推しのグッズにしろ、好意を金に変換する行為は、もうすっかり日常の一部になってしまった

 

だからこの事件は、多くの男性にとって「知らない世界の話」ではないのだ。

金額の桁こそ違うが、入り口はまったく同じ場所にある。

ちょっと多めに出した。

喜んでくれた。

また出した。

その延長線上のどこかに、あの日の高野健一が立っている。

 

もうひとつ、世間の側にも下地があった。

数年前、恋愛感情を利用して男性から金を引き出す「頂き女子」という言葉がネットに広まり、大きな事件にもなった。

今回の被害女性が、そういう手口を使っていたかどうかはわからないのだが、「貢がされて捨てられた男」という物語の型だけは、すでに世間の中に出来上がっていたことは確かだろう。

型があるところに事件が起きると、人はその型に流し込んで読んでしまう。

 

「よくぞやってくれた」は代理カタルシスなのか

そして、いくつかの投稿はもう同情の域を超えている。

ここで注目したいのは「俺達」という“主語”である。

 

書いた人は高野健一の友人でも身内でもない。

それなのに「俺達」で括り、味方だと宣言している。

これはもう高野健一への言葉ではなく、彼に自分を重ねた人たちが、自分自身にかけている言葉なのだと思う。

 

ただ、ここははっきりさせておきたい。

どれだけ我慢の限界だったとしても、55回刺した行為と、犯行後にその顔を撮った行為に、庇う余地はない。

「よく我慢した」の先にあったのは復讐を超えた、ただの惨劇だった。

男女で共感の向かう先が違う理由

ここまで男性側の心理を書いてきたが、もちろん女性が冷たいという話ではまったくない。

同じ事件を見て、先に目に飛び込んでくるものが違うだけなのだ。

男性が「搾取された側」を見ているとき、女性は「刺された側」を見ている。

どちらが正しいかではなく、誰の痛みを先に見てしまうかという順番の話である。

 

男性は経済的絶望を想像しやすい

恋愛でも趣味でも、男性は金を出す側に回る機会がまだまだ多い。

だから「貢いだ金が返ってこない」「気づいたら口座が空だった」というシナリオを、わりと具体的に思い描ける。

高野健一は消費者金融から借りてまで金を渡し、最後には貯金が底をついていたという。

 

この「じわじわ削られて、気づいたら何も残っていない」という感覚は、身に覚えのある人にはやたらとリアルに響く。

僕も似たような経験があるし、男性なら何かしらそういう経験があるだろう。

金が減っていくのは、生活が減っていくということだ。

男性の側が先に見ていたのは、決して刃物ではなく、空になった口座のほうだったのだろう。

 

女性は身体的恐怖を先に感じやすい

いっぽう、女性がこの事件を見たとき、真っ先に立ち上がるのは別の光景だ。

朝の路上で、顔見知りの男が刃物を持って待っていた。

逃げ場はなかった。

金を借りたことがあるかどうかは関係ない。

好意を向けてきた男が、ある日その好意ごと刃物に変えて戻ってくる——この恐怖は、多くの女性にとって想像ではなく警戒の対象として実在している。

 

だから「同情の余地」という言葉が、そのまま身の危険に聞こえてしまうのだ。

言い方はきついが、この警戒心そのものは理解できる。

ここで気づいてほしいのは、こちら側の声のほうが圧倒的に静かだということだ。

擁護の投稿が万単位で広がっていくいっぽうで、恐怖を語る声はほとんど拡散されずに沈んでいく。

目立つ意見が多数派とは限らないというのは、こういうところに出る。

 

同じ事件でも「被害者」が違って見える

結局、両者は同じニュースを読んでいながら、頭の中では違う人が被害者として映っている。

片や「金を吸い取られて人生を壊された44歳の男」。

片や「朝の路上で命を奪われた22歳の女性」。

 

集合写真を配られてまず自分の顔から探してしまうのと同じで、人は事件の中からも、自分に一番近い立場の人間を先に見つけてしまう。

そして一度その人を見つけると、あとはその人の痛みばかりが大きく見えてくる。

だから議論が噛み合わない。

お互い「なんでこっちの被害者が見えないんだ」と苛立っているのだが、そもそも見ている場所が違うのだから、噛み合いようがないのである。

事件が問いかけた「共感」の正体

ここまで男女の話として書いてきたが、僕はこれを男女の対立で終わらせたくない。

なぜなら、同じことは性別と関係のない場所でも、しょっちゅう起きているからだ。

「貢がせるほうは覚悟があったのか」という問いは、この件の急所を突いていると思う。

好意を金に変える関係は、うまくいっているうちは誰も何も言わない。

崩れたときに初めて、「あれは愛だったのか、取引だったのか」が問われる。

 

アイドルが結婚を発表した瞬間に「推しを降ります」と言い出す人が現れるのも、根っこは同じだ。

あれは祝福できない心の狭さではなく、自分がそこへ注いだ時間と金と感情が、まとめて宙に浮いてしまった痛みなのだと思う。

注いだものが多いほど、失ったときの痛みは自分のものになる。

 

だから今回、多くの人が共感したのは高野健一という人間ではない。

人は加害者に共感しているのではなく、自分と似た境遇の人に自分を重ねているだけなのだ。

そして一度重ねてしまえば、その人の苦痛は他人の苦痛ではなくなる。

自分の痛みとして感じてしまう。

 

同じ事件を見ても「何が正しいか」の答えが人によって違ってしまうのは、頭が悪いからでも心が冷たいからでもない。

その前の段階で、誰に自分を重ねたかがもう決まってしまっているからである。

怖いのは、その決定が本人にもほとんど自覚できないことだ。

 

僕たちは本当に、事件そのものを見ているのだろうか?

それとも、事件に映り込んだ自分の姿を見ているだけなのか?

 

そのうえで、これだけは書いておきたい。

背景を理解することと、暴力を正当化することは、まったく別のものだ。

どれほど追い詰められていようと、どれほど制度が頼りなかろうと、人の命を奪っていい理由にはならない。

ここを曖昧にした瞬間、この事件は「気持ちがわかる殺人」になってしまう。

 

それにしても、なんとも後味の悪い話である。

22歳の朝が、あの路上で終わってしまったという事実だけは、どんな事情を並べても動かない。

16年という歳月が、その重さと向き合う時間になるのだろうか。

そして僕たちは、この事件のどの部分に自分を重ねたのか。

そう振り返ってみる時間も、案外悪くないのかもしれない。

 

判決16年をめぐる「重い・軽い」の割れ方については、こちらで書いている。

https://taichimaster.jp/takadanobaba-streamer-sentence