高田馬場ライバー刺殺事件の懲役20年はなぜ重いと言われるのか?
東京・高田馬場でライブ配信中の女性ライバーが襲われた事件をめぐり、検察側は被告に懲役20年を求刑した。
先に押さえておきたいのは、懲役20年は確定判決ではなく、検察側の求刑であるという点だ。
その数字に対し、ネットでは「残虐な犯行を考えれば軽い」という声と、「金銭問題の経緯まで考えれば重い」という声が真っ二つに分かれている。
僕は、この正反対の反応を単なる被告擁護と被害者擁護のぶつかり合いだけで片づけると、事件の背景にある大事な問題を見落とす気がしている。
今回は、高田馬場ライバー刺殺事件への二つの見方と、なぜ懲役20年を重いと感じる人がいるのかを順番に書いていこうと思う。
目次
高田馬場ライバー刺殺事件への二つの見方
事件が起きたのは2025年3月11日である。
女性ライバーは山手線を徒歩で一周する企画をライブ配信しており、高田馬場駅近くの路上で被告に襲われて亡くなった。
被告は現行犯逮捕され、2026年7月1日の初公判で起訴事実を認めて謝罪している。
報道された犯行の内容は、言葉を失うほど重い。
被告は2本のナイフを持ち、女性ライバーの配信をリアルタイムで追って居場所を特定し、路上で待ち伏せしたとされている。
顔や首、胸など上半身を中心に何度も襲い、女性ライバーは出血性ショックで亡くなった。
被害を受けた状態が後に明らかにされたが、その内容はあまりにも凄惨なものだった。
配信を利用して居場所を追い、命を奪った行為の重さは揺らがない。
だから、懲役20年という求刑を見て「軽い」と感じる人がいるのは自然な反応だと思う。
犯行の計画性や残虐さに目を向ければ、20年という数字では受け止めきれないという感情が湧く。
被害女性の遺族が厳しい処罰を望んでいると報じられていることも、この見方の重さを増している。
奪われた命は、刑期を終えても戻らない。
その一方で、被告と女性ライバーの間には、事件前から約250万円の金銭問題があった。
被告は消費者金融から借りてまで金銭を渡し、返済を求めて民事裁判を起こして勝訴したものの、受け取った返済は約3万円だったとされる。
この経緯に目を向けた人は、被告を最初から一方的な加害者として見るのではなく、金銭問題では被害を受けた側でもあったと感じている。
つまり、同じ懲役20年でも、どの被害を先に見たかで重さが変わるのだ。
女性ライバーが命を奪われた被害に感情移入すれば、20年は軽く見える。
被告が金を貸し、裁判にも勝ちながら十分に取り戻せなかった被害に感情移入すれば、20年は重く見える。
二つの反応を分けているのは、刑期の計算よりも、どちらの痛みを先に受け取ったかという違いなのだと思う。
ただし、この二つは同じ大きさの被害として並べられるものではない。
返されなかった金銭は重大な問題だが、それによって命を奪う権利が生まれるわけではないからだ。
被告の苦境を理解することと、被告の犯行を認めることは別である。
犯人に同情が集まる理由
被告への同情が集まる理由を考えるには、約250万円という数字だけでなく、その金がどう用意され、返済を求めたあとに何が残ったのかを見る必要がある。
そこには、金銭を失っただけでなく、法的な手続きを取っても状況を変えられなかったという絶望がある。
この行き止まりに自分の経験を重ねる人がいるからこそ、20年という求刑が「貸した側だけに厳しい」と映っているのだ。
消費者金融から借りて渡した約250万円
検察側の説明では、被告は2021年末ごろから女性ライバーの配信を見るようになり、好意を抱いたという。
その後、アイテムの購入や直接の金銭援助を重ね、2022年以降には生活費などの名目で合計約250万円を貸したとされている。
しかも、被告は自分の手元にある金だけでなく、消費者金融から借りてまで送金していた。
ここに同情が集まるのは、単に「大金を失ってかわいそう」という話ではない。
借金をして相手を助けたつもりが、その借金だけが自分の生活に残る状況は、想像するだけでも苦しくなってくる。
好意から始まった行動が、いつの間にか自分を追い詰める形へ変わっていったわけだ。
金を貸した判断が無理のあるものだったとしても、追い詰められた苦しさまで無かったことにはできない。
一方で、消費者金融から借りてまで金を渡すことは、関係がすでに危ういところまで来ていた証しでもある。
好意と貸し借りが絡み合い、返済への期待まで背負わせれば、関係は簡単には終われなくなる。
この事件では、その危うさを止める線が引かれないまま、金額と不満が積み上がってしまった。
好意と借金が絡み合った末の袋小路。
勝訴しても返済されなかった金銭
被告は返済を求めて民事裁判を起こし、勝訴したとされている。
法に訴え、裁判所から支払いを認められたのであれば、普通はそこで解決に近づいたと思うだろう。
しかし、報道された経緯では、約250万円に対して返されたのは約3万円だった。
裁判に勝つことと、実際に金が戻ることは同じではなかった。
この食い違いが、被告への同情を大きくしている。
金を貸したことを後悔し、返済を求め、私的な報復ではなく裁判という手段を選んでも、現実がほとんど動かなかったと受け止められているからだ。
ネットで語られている怒りの本当の向き先は、女性ライバー個人だけではないように見える。
勝訴しても被害の回復につながらない制度への不信が、懲役20年を重く感じさせているのだ。
もし民事裁判に勝っても十分な返済を受けられないのなら、何のための裁判なのだろうか。
そう感じる人が出るのも無理はない。
もちろん、制度が思うように動かなかったことは、その後の犯行を正当化しない。
だが、法で解決しようとしても救われなかったという感覚は、同じような金銭問題を抱える人にとって他人事ではないのだろう。
貸した側だけが全てを失ったという見方
被告側に同情する人の目には、この事件は「貸した側だけがすべてを失った話」として映っている。
被告は金銭を失い、消費者金融からの借金を抱え、裁判に勝っても十分な返済を受けられず、その後の犯行によって自由まで失うことになる。
そこへ懲役20年の求刑が示されたことで、法を頼った側が最後に20年まで失うという物語ができあがった。
この見方に立てば、「20年は重い」という感情が出てくる理由は分かる。
なかには、自分も金を返してもらえなかった、自分の好意を利用されたと感じた、といった過去の痛みを被告に重ねる人もいるのだろう。
被告の苦境を否定されると、自分の痛みまで軽く扱われたように感じる。
だから、厳罰を求める声に対して強く反発してしまうわけだ。
ただ、ここで一度立ち止まりたい。
被告が金銭問題で被害を受けたことと、女性ライバーが命を奪われたことを足し引きし、刑を軽くする答えを出すことはできない。
奪われた金銭への怒りが、奪われた命を小さくする理由にはならない。
ただ、買った恨みというのはそういう理屈を飛び越えてしまう。
飛び越えていいわけではないのだが、それが人間という生き物なのかもしれない。
一線を越えた先にあるもの
約250万円を借り、民事裁判のあとも十分に返済しなかったとされる経緯は、被告への同情が生まれた理由を理解するうえで欠かせない。
この事実を伏せて、被告をただ一方的な加害者として描けば、「なぜここまで追い詰められたのか」という疑問が残る。
金銭問題をきちんと伝えることは、被害女性を責めるためではなく、事件が起きるまでの経緯を見失わないために必要である。
しかし、ネットでは「返さない方が悪い」「刺されても仕方ない」という趣旨の声まで出ている。
ここまで来ると、金銭問題の指摘ではなく、死を当然の結果として扱う非難になってしまう。
借金を返さなかったとされることは、命を奪われてよい理由にはならない。
この境界線だけは、決して曖昧にしてはならない。
これは綺麗事だろうか。
もう少し言うと、女性ライバーの行動に問題がなかったと言い換える必要もない。
約250万円を借り、裁判で支払いを命じられながら十分に返さなかったとされるなら、その金銭問題はそれ自体として批判されるべきことだ。
だが、批判の対象は金銭をめぐる行動であり、被害女性の人格や命ではない。
問題のあった行動を指摘することと、亡くなった人の死を正当化することは、まったく別の話だということは理解しておく必要がある。
「20年は重い」と感じる人の奥にあるのは、被害女性への憎しみだけではないはずだ。
裁判に勝っても金が戻らなかったことや、金銭を渡した側が救われないまま追い詰められたことに対する、制度への不信がある。
また、そういう悔しさを経験した人もいると思う。
その不信を「被告擁護」と切り捨てれば、同じような絶望がどこで生まれるのかを考える機会まで失ってしまう。
必要なのは、犯行を認めずに、犯行へ至る前の行き止まりを見つめることなのだと思う。
被告は、法的な手続きを取っても金銭を十分に取り戻せなかった。
その絶望は理解されるべきだが、最後に選んだ行為は、別の人の人生を終わらせるものだった。
犯人の男は、そのことをどう思っているのだろうか。
「一矢報いる」という言葉があるが、その胸中に後悔の念があるのかどうか。
最終的にどのような判決が示されるのか、今後の続報に注目したい。