都内で暮らす67歳の医師が、いま車いすの上で生活している。

きっかけは、家族と出かけた近所の焼き鳥屋で食べた「とりわさ」だった。

表面をさっと湯通ししただけで、中はほぼ生のまま、わさびじょうゆで食べるあの鶏料理である。

 

最初は、よくある食中毒だった。

ところが話はそこで終わらなかった。

しばらくして免疫が暴走し、この人の体は自分自身の神経を攻撃し始めたのだ。

病名は『ギラン・バレー症候群』という。

 

人工呼吸器につながれ、およそ5カ月間、天井と時計の針だけを見つめて過ごした。

発症から2年半が経ったいまも、車いすでの生活が続いている

本人は朝日新聞の取材にこう語った。

「避けられたリスクだった」

医師である本人が、である。

今回は、この一件でいったい何が起きたのかを、鶏の生食のことをよく知らない人にもわかるように書いていこうと思う。

わずか数時間で歩けなくなった

発端は、2023年12月27日の朝である。

都内の医師・金吉男さんは、自宅で左手に妙な違和感を覚えた。

3時間ほど経つと、今度は足が動かしづらくなってきた。

ただごとではないと感じて近くの神経内科へ行くと大学病院を勧められ、血液やCTの検査を終えると、そのまま入院になった。

 

そして、その日の夜には両足がまったく動かなくなってしまう

朝に左手の違和感、夜には車いす。

この経過は、朝日新聞の記事の中で本人の言葉として詳しく語られている。

進行は、それでも止まらなかった。

数日後には呼吸ができなくなり、集中治療室で人工呼吸器につながれた

意識ははっきりしているのに、体だけがまったく動かない

そのまま約5カ月間、見えるのは天井と時計の針だけだったという。

「本当に絶望だった。死んだ方が良かったと思っていた」

ずっと患者を診てきた側の人が、そこまで言っている。

 

そして冒頭で書いたとおり、2年半が経ったいまも金さんは車いすの生活を続けている。

たった一皿の鶏料理が、である。

いったい体の中で何が起きたのだろうか。

下痢が治った2週間後に麻痺が来る

ここからは、なぜ「とりわさ」がそこへつながるのかという仕組みの話をしたい。

鶏の生や半生で起きる食中毒の代表が、カンピロバクターという細菌によるものである。

食べてから1日〜7日ほどで、下痢・腹痛・発熱に襲われる。

つらいが、多くの場合は1週間ほどで治っていく。

 

問題は、ここから。

治って安心した1〜3週間後に、ごくまれに手足のしびれや脱力がやってくることがある。

これがギラン・バレー症候群である。

体を守る免疫が、手足へ伸びる神経を誤って攻撃してしまう病気で、重症になると呼吸の筋肉まで麻痺してしまう。

なぜそんな誤爆が起きるのか。

指名手配の似顔絵がそっくりすぎて、無関係の人まで呼び止められてしまうようなものだ。

カンピロバクターの表面の構造は、人間の神経の成分とよく似ている

菌を退治するために作られた抗体が、似た顔をした自分の神経まで攻撃してしまうのである。

 

怖いのは、その時間差そのものだと思っている。

下痢が治った2週間後に手がしびれても、普通はあの日のとりわさを思い出さない

原因と結果が、頭の中でつながらないのだ。

金さんの場合は、医師だったからこそ「思い当たる節」までたどり着けたとも言える。

ネットでも、この時間差を知って青ざめる声が多かった。

数字の上では、カンピロバクターにかかった人のうち、ここまで進むのはおおむね1000人に1人程度とされている。

1000人に999人は、下痢で済んでいるということでもある。

ただ、その1人になった人の生活は、これほど根こそぎ変わってしまう。

めったに起きないと聞いて安心するか、火を通せば済むならそうしておくかと考えるか。

ここは人によって分かれるところだろう。

新鮮な鶏肉なら安全という勘違い

それでも生食の話になると、必ず出てくる言葉がある。

「新鮮だから大丈夫」である。

結論から言うと、鶏肉に関してこの言葉はほとんど意味を持たない。

カンピロバクターはもともと鶏の腸の中に普通にいる菌で、食肉に処理する工程で肉の表面へ広がってしまう。

鮮度の問題ではなく、最初から付いているかどうかの問題なのだ。

国の調査では、お店に並ぶ国産の鶏肉のうち、3割から9割超が菌を持っていたという結果が出ている。

むしろ新鮮なほど菌も弱っていない、という身も蓋もない話すらあるくらいだ。

そして見た目や匂いでは、まったく判別できない

 

とりわさの「さっと湯通し」も、殺菌としてはほぼ気休めである。

表面の菌には効いても、切り口や調理器具から付いた菌までは届かない。

菌が死ぬ条件は、中心部を75℃で1分以上加熱すること

白っぽくなった表面は、安全の証明ではないのだ。

これは外食だけの話でもない。

鶏肉を切ったまな板をそのままサラダの野菜に使えば、菌は火を通さないものへ引っ越していく。

ネットには、まさにその現場を見てしまった人の声もあった。

家族間の小競り合いのようでいて、どこの家でも起きていそうな話だ。

 

小さい子どものいる家庭なら、なおさら他人事ではない。

子どもは体が小さいぶん、大人より少ない菌でも重くなりやすいからだ。

とはいえ、台所でやることは3つしかない。

  • 鶏肉を切ったまな板や箸は、そのまま他の食材に使わない
  • 鶏肉は中心の色が変わるまで、しっかり火を通す
  • 子どもに取り分けるのは、いちばんよく火の通ったところにする

地味な話だが、家の中の危険はこの3つでだいたい消える。

医者なのになぜ食べてしまったのか

この報道を受けたネットの反応は、怖い・気をつけようという声が大半だった。

ただ、その中に混じって、こういう厳しい声もそこそこ流れていた。

  • 医者なのに、危ないとわからなかったのか
  • 好きこのんで生の鶏を食べるほうが悪い
  • 避けられたリスクも何も、そらそうでしょ

正直、そう言いたくなる気持ちはわかる。

感染症の怖さをいちばん知っているはずの職業の人が、なぜ半生の鶏に箸を伸ばしたのか。

 

ただ、この「医者なのに」こそが、今回の話のいちばん深いところだと思っている。

知っていることと、目の前の一皿を断ることは、まったくの別物だ

金さんが食べたのは、怪しげな店の珍味ではない。

家族と出かけた、自宅近くの焼き鳥屋の、メニューに普通に載っている一品だった。

メニューに載っている以上、頼んだ客は金さんだけではないはずだ。

店員も普通に運んでくるし、隣の席の客も普通に食べている。

危ないものは、危ない顔をして出てこない

これがいちばんたちが悪いのだと思う。

 

そもそも鶏を生で食べる習慣は、鹿児島や宮崎の「鳥刺し」から来ている。

とりわさも、表面だけ火を入れて中は生という点では、その仲間だ。

あちらには生食向けの処理基準を設けている自治体もあり、長年の食文化として根づいてきた。

 

ところが、その前提が抜け落ちたまま、「郷土の味」の看板だけが都会の居酒屋へ広がっているという指摘がある。

さらに言えば、最近は小洒落た店の「レアチキン」や低温調理風の一皿も増えた。

しっとりしたピンク色の断面が、丁寧な仕事の証明のように写真へ収まり、ネットで映える。

火が通っていないことが、いつのまにか「いい店っぽさ」になっていないか

写真に写るのは断面の色だけで、菌は写らないのである。

ネットには、過去の自分の食べ方を振り返ってヒヤリとする声も多かった。

結局、人が食べ方を変えるのは、自分か身近な誰かが痛い目に遭ったあとなのだ。

金さんが名前と車いす姿を出して語ったのは、その順番を先回りさせるためだったのだと思う。

鳥刺し文化はこれからどうなるのか

ここで、思い出しておきたい事件がある。

2011年に「焼肉酒家えびす」で起きた、ユッケの集団食中毒だ。

加熱用の牛肉を生で出したことで、O111という食中毒の菌が広がった。

腸の出血や腎臓の障害を起こす、大腸菌の中でもとくにたちの悪いタイプである。

181人が発症し、5人が亡くなった。

亡くなった5人のうち3人は、6歳の男の子が2人と、14歳の男の子だった

家族で焼肉に出かけて、子どもが生肉の一皿を口にして、そのまま帰らぬ人になった。

子どもを持つ親として、これほど背筋の冷える構図はない。

あの事件をきっかけに、生食用の牛肉には罰則付きの厳しい基準が作られた。

翌2012年には、牛のレバ刺しの提供そのものが禁止されている。

事故が続いてからようやく信号機がつく交差点と同じで、食の規制は、誰かが倒れたあとにしか動かないのである。

 

では、鶏はどうだったか。

牛のような罰則付きの規制はないまま、長いあいだ「気をつけましょう」で止まってきた。

15年、ずっとお願いベース。

その間も、カンピロバクターによる食中毒は2025年だけで220件、患者1226人にのぼっている。

細菌性の食中毒としては、長年トップクラスの常連である。

国の公式の呼びかけも、かなり踏み込んだ言葉になってきた。

お役所の文章に、ビックリマークが付く時代なのだ。

そして2026年7月、厚生労働省はついに、生食用の鶏肉について初めてのガイドラインを作る方針を決めた。

約3年の専門的な研究を踏まえたもので、処理や提供の衛生基準を事業者へ示すものになるという。

生食を勧めるものではなく、子どもや高齢者はとくにリスクが高いことも合わせて知らせていく方向だ。

 

ただし、これはあくまで「こうしてください」という指針である。

牛のレバ刺しのような、破れば罰せられる禁止ではない。

守るかどうかは、結局その店の判断に委ねられるということだ。

鳥刺し文化を禁止で消すのか、基準を作って残すのか。

南九州の食文化への配慮も含めて、線引きはまだ決まっていない。

大人が自分でリスクを知ったうえで選ぶのなら、それは食文化の話だろう。

ただ、子どもの皿に載るものだけは、子ども自身には選べない

選んでいるのは、親のほうなのである。

 

金さんはいま、リハビリを続けながら車いすで生活している。

同じ病気の重い麻痺から、時間をかけて日常へ戻った人もいる。

この人の体が、少しずつでも動くほうへ向かってくれたらと願っている。

そのうえで僕らにできることは、拍子抜けするくらい少ない。

今夜の食卓で、鶏肉にしっかり火を通す。

子どもの皿には、いちばんよく焼けたところを取り分ける。

それだけのことで、あの2週間後の麻痺とは無縁でいられるのだ。

よく焼きの焼き鳥も、十分にうまいのだから。

この記事で参考にした情報

体の話なので、気になったところは自分でも確かめられるように、読んだ資料を並べておく。

金さんの経過と発言について

  • 朝日新聞デジタル「加熱不足の鶏肉食べた医師、車いす生活に『避けられたリスクだった』」(2026年8月7日)

 

カンピロバクターと鶏肉の加熱について

  • 厚生労働省「お肉による食中毒の原因や予防方法について紹介します」
  • 農林水産省「鶏料理を楽しむために〜カンピロバクターによる食中毒にご注意を!!〜」
  • 食品安全委員会「カンピロバクターによる食中毒にご注意ください」
  • 食品安全委員会「食品健康影響評価のためのリスクプロファイル〜鶏肉等におけるCampylobacter jejuni/coli〜(改訂版)」(小売段階の国産鶏肉の汚染率)

 

ギラン・バレー症候群について

  • 済生会「ギラン・バレー症候群」(済生会小樽病院 神経内科)

 

生食用鶏肉のガイドラインについて

  • NHK「生食用の鶏肉 衛生基準などのガイドライン初めて策定へ 厚生労働省」(2026年7月2日)
  • 朝日新聞デジタル「生食用の鶏肉、初のガイドライン策定へ 厚労省が衛生基準示す方針」(2026年7月12日)
  • 厚生労働省食品安全情報の発信(2026年7月28日)

 

2011年のユッケ集団食中毒について

  • 厚生労働省の公表資料と、当時の各社報道(発症者数・死者の内訳)

 

なお、この記事は医療の専門家が書いたものではないので、手足のしびれや力の入りにくさが出たときは、この記事を読み返すより先に病院で診てもらってほしい。