オリックスの高卒ルーキー、野上士耀(のがみ・しきら)が亡くなった。

2026年9月30日、球団が発表した。

まだ19歳、プロに入って1年目の捕手だった。

死因は、ご家族の意向で公表されていない。

僕も野球が好きで、子どもも野球をやっている。

高校から直接プロのユニフォームを着られるのは、高校球児のほんのひと握りだ。

春日井で育ったスーパー中学生

ヘルメットとプロテクター姿で笑う捕手を描いた水彩画

  • 読み方:のがみ・しきら
  • 生まれ:2007年5月23日、愛知県春日井市
  • 体格:170センチ/80キロ
  • 投打・ポジション:右投げ右打ちの捕手
  • オリックスでの背番号:60
  • 経歴:春日井オルティーズ→愛知名港ボーイズ→明秀学園日立高→オリックス(2025年ドラフト7位)
  • 主な記録:高校通算15本塁打/2025年夏の甲子園に4番・捕手で出場/2026年は2軍で32試合・14安打・打率1割8分7厘

小学生のころは、地元の少年野球チーム「春日井オルティーズ」で白球を追っていた。

2019年、小学6年生のときには、背番号9で中日ドラゴンズジュニアのメンバーに選ばれている。

ドラゴンズジュニアは、年末に開かれる「12球団ジュニアトーナメント」のために、中日が地元の小学生から選び抜くチームだ。

愛知で野球をしている子どもなら、一度は袖を通してみたいユニフォームだろう。

 

中学では、学校の部活ではなく、プロと同じ硬いボールを使うクラブチームのリーグ「ボーイズリーグ」に進み、「愛知名港ボーイズ」でプレーした。

このころから肩の強さは飛び抜けていて、「スーパー中学生」として特集が組まれるほどだったという。

盗塁しようとする走者をアウトにするため、捕手が二塁へ投げる送球は、彼の場合ほとんどが1.9秒台で、最速は1.78秒。

キャッチャーの二塁送球は、プロでも2秒を切れば「強肩」と呼ばれる。

中学時代の彼を見ていた人も、訃報のあとにこう振り返っている。

人間性を学びに明秀日立へ

2023年の春、15歳の野上士耀は愛知を離れ、茨城県日立市の明秀学園日立高校へ進んだ。

いくつもの名門校から誘いがあったなかで、彼が決め手に挙げたのは、監督の金沢成奉だった。

「金沢監督のもとで、野球を通して人間性を学びたいと思い、決めました」

金沢監督は、青森の光星学院(現・八戸学院光星)で、巨人で2000本安打を打った坂本勇人らを育て、のちに明秀日立へ移った指導者だ。

 

その金沢監督は、彼が入ってくる前から周りにこう話していたという。

「今度、ええキャッチャーが入ってくるんですよ。野球センスは田村龍弘よりはるかに上」

田村龍弘は、光星学院から千葉ロッテに進み、正捕手としてマスクをかぶってきた選手だ。

ただ、入学してきたころの彼について、監督は「お山の大将で、自分がすべてみたいな感覚で野球をやっていた」とも振り返っている。

何度も注意を受け、「もう辞めろ」という話をされたこともあった。

金沢監督によると、そのたびに泣いたという。

それでも彼は辞めなかった。

監督は、当時の彼をこうも振り返っている。

「独特の人懐っこさもあって、腹は立つけど、どこかかわいいところもあって。怒ってはだまされ、怒ってはだまされの繰り返しでしたね」

叱っても叱っても、最後には憎めなくなってしまう選手だったのだろう。

その恩師のことを、本人はこう語っている。

「自分にとって父みたいな存在です。厳しいことを言われるたびに、気分が沈むことなく、見返すつもりで取り組みました。監督の指導があってこそ、今があります」

 

キャッチャーとしても、最初から順調だったわけではない。

入学してしばらくは、ピッチャーにどの球を投げさせるかを組み立てる「リード」に苦しみ、試合には外野手として出ていた。

当時の自分を、本人はこう振り返っている。

「自分は単純な性格なので、ストレートで行けると思えばストレート中心で攻めるようなリードをしていて、状況によってのリードが出来ていませんでした」

本を読んで勉強もしたが、続けられたのはノートだった。

「自分なりに継続できたのは試合が終わった後に自分が感じたことをノートに書いてみたことです」

金沢監督は、捕手という仕事についてこう話している。

「捕手は監督の分身とならなければなりません。考える力、相手を思いやる気持ちなどが必要になります」

2年生の秋からは、捕手として試合に出るようになった。

甲子園を決めた延長10回の一打と一球

金沢監督が、彼の変わりようをはっきり感じた試合がある。

2025年7月27日、全国高校野球選手権の茨城大会の決勝。

明秀日立と藤代高校の試合は、延長戦にもつれ込んだ。

高校野球では延長に入ると、早く決着をつけるために、最初から一塁と二塁にランナーを置いた状態で攻撃を始める「タイブレーク」になる。

先攻の明秀日立は10回表、その場面で4番の野上士耀に打席が回ってきた。

ここで彼がランナーをかえすヒットを放ち、明秀日立が2点を勝ち越した。

試合のあと、本人の言葉は短かった。

「仲間を信じて振り抜いただけ。最高の気分」

 

そして10回裏、藤代の攻撃が同じ形で始まり、打者がバントで打球を転がしてきた。

こういう場面では、まず一塁で確実にアウトを1つ取るのがセオリーだ。

ところが野上士耀は、転がった打球に一目散に駆け寄ってつかむと、迷わず三塁へ投げた。

判定は、アウト。

三塁でアウトにすれば、ホームにいちばん近いランナーを消すことができる。

そのかわり、送球がほんの少しでも遅れたり逸れたりすれば、ノーアウト満塁のピンチを自分で招くことになる。

甲子園がかかった決勝の延長戦で、18歳の高校生にその一球を迷わず選べるものだろうか。

明秀日立はこのあと1点を返されたものの、同点は許さずに4-3で逃げ切り、3年ぶり2度目の甲子園出場を決めた。

 

この一球について、金沢監督はこう振り返っている。

「野上が躊躇なく三塁へ送球し、紙一重でアウトにした瞬間、甲子園出場を確信しました」

8月9日の甲子園の1回戦では、明秀日立は静岡の聖隷クリストファーに1-5で敗れた。

それでも4番・捕手の野上士耀は、盗塁を狙った走者を二塁でアウトにし、その送球は1.93秒を記録している。

打っては9回、相手の2年生投手が投げた141キロのストレートをとらえ、レフトの頭を越える二塁打を放った。

「相手は2年生投手なので負けてたまるかという気持ちでした」

この夏の彼を、金沢監督はこう振り返っている。

「高校野球の最後の最後、数試合でポテンシャルが一気に開花しました。何度も言い聞かせて、ようやく我が消え、他者への思いやりが出てきた。その結果、一気に”ボン”と爆発した感じでした」

高卒で支配下入りは2,000人に1人

甲子園で敗れた直後、野上士耀は進路について「大学進学など監督と相談して進路を決めたい」と話していた。

話し合いの末に、野上士耀が選んだのは、高校からすぐプロに入る道だった。

「自分は座って勉強をするのがあまり好きではなく、また勉強を4年間やるとは考えられなかった。自分は体を動かしたいタイプ。高卒からプロ野球選手になるのは小さい時からの目標でした」

 

日本高野連によると、2025年度の高校の硬式野球部員は12万5,381人で、そのうち3年生は4万842人だった。

この年の秋、プロ志望届を出してプロへの意思を示した高校生は124人。

そのうちドラフト会議で、1軍の試合に出られる契約の「支配下」の枠で指名されたのは、12球団あわせて19人しかいない。

高校3年生4万人あまりのうち、およそ2,000人に1人。

その19人のなかに、野上士耀がいた。

同級生の能戸輝夢とそろってプロへ

2025年10月23日のドラフト会議で、オリックスは7位で野上士耀を指名した。

この年、オリックスが支配下の枠で指名したのは7人で、彼はその最後に名前を呼ばれた選手だった。

甲子園では4打数1安打に終わっていて、本人は「あまりアピールできなかったので、なんとか育成で指名がかかればと思っていました」と振り返っている。

育成は、背番号が3桁で、1軍の試合に出るには支配下への登録を待たなければならない契約だ。

だからこそ、指名の瞬間はこうだった。

「自分はただ驚きでした。仲間たちがすごく喜んでくれて、嬉しかったですね」

球団のスカウトは彼を「強肩強打の捕手」と評し、「将来的には中軸としての期待もかかる」と見込んでいた。

この日は、3年間同じグラウンドで汗を流した同級生で、主将の能戸輝夢(のと・きらむ)も、中日から4位で指名されている。

指名のあと、野上士耀は同級生の名前を出して、こう意気込んでいる。

「どっちが先に1軍で出るか」

本人は、プロでの目標をこう口にしている。

「やってみないと分からない世界だと思うんですけど、まずは1年目しっかりとやって、起用されるように信頼を集めたい。そしていずれは球界を代表する捕手になりたいです」

2025年11月16日の仮契約のあとには、自分の持ち味をこう話した。

「自分の持ち味は明るい性格とガッツあるプレーです」

 

背番号60が決まった2025年11月28日の入団会見では、こう話した。

  • 「ワクワクしています。僕は元気があるので、明るく溌剌(はつらつ)とやっていきたいです」
  • 「右(打者)の森友哉選手と言っていただけるような選手になりたいです」
  • 「元気あるプレーで、球場を元気にしたいと思います」

森友哉は、オリックスで打線の中心を担ってきた左打ちの捕手だ。

会見では、オリックスの先輩捕手、若月健矢の名前も挙げて「森選手や若月選手など、捕手としてお手本となる選手がいるので、良いところを吸収して頑張っていきたい」とも話している。

背番号60の捕手が、満員の球場のグラウンドを背中ごしに見つめる水彩画

舞洲で過ごしたルーキーイヤー

プロ1年目の2026年、野上士耀は大阪・舞洲(まいしま)を拠点にする2軍で経験を積んでいった。

1軍での出場はなく、2軍では32試合に出場した。

5月1日の時点では、11試合で31打数3安打、打率は9分7厘だった。

そこから少しずつ結果を積み上げ、シーズンを終えるころには14安打、打率は1割8分7厘まで上がっていた。

6月14日、徳島で行われた広島戦では、3回に同じ年の育成3位で入団した中西創大が三塁打を放ち、続く野上士耀がタイムリーでかえして先制した。

この1点を守り切って、オリックスは1-0で勝っている。

この日は2安打だった。

 

9月26日の広島戦には「8番・捕手」で先発し、3打数1安打。

この日のヒットが、試合で打った最後の1本になった。

翌27日の2軍の最終戦にも、「9番・DH(指名打者)」で名前を連ねた。

このあとは、若手選手が秋に宮崎で実戦を重ねるフェニックスリーグに向けて準備を進めていたという。

舞洲のスタンドには、そんな背番号60の姿を追いかけていたファンもいた。

練習では、本職の捕手だけでなく、ベテラン内野手の西野真弘と並んでサードの守備練習に汗を流す姿もあった。

同じ捕手の先輩、堀柊那のそばを、弟のようについて回っていた姿を覚えているファンもいる。

小浜裕一球団本部長は、彼への期待をこう語っている。

「キャッチャーで、(チームには球界を代表する)若月もいて、一番下でどんどん力を付けてほしいと期待していた」

オリックスの岸田護監督も、「これからもっともっとレベルを上げていかないといけなかった選手なんですけど、本当に残念です」と話した。

 

高校の恩師も、彼を送り出すときにこう話していた。

「捕手として、人として教えることがたくさんありすぎて……。3年間だけでは時間が足りず、必要な技術をすべて仕込みきれていないです」

ファンに愛された背番号60

最後のヒットを打った9月26日の試合前、野上士耀はスタンドにいた赤ちゃんを見つけて、フェンスのそばまで寄っていった。

2026年4月8日に舞洲で開かれたサイン会では、宮崎キャンプで買った帽子にサインをもらったファンもいる。

訃報のあとには、彼のためにチームの日本一を願うファンの声も上がっている。

持ち味は明るさだと自分で言い切り、叱られても辞めずに食らいつき、試合前には客席の赤ちゃんに歩み寄る。

背番号60がファンに愛された理由は、打率の数字より先に、そういう姿にあったのだと思う。

 

2軍は9月30日に予定していた練習試合を取りやめ、翌日から3日間を自主練習にあてた。

10月1日には1軍も練習を自主練習に切り替え、練習の前に選手たちが全員で黙とうをささげた。

岸田監督は「選手たちも当然動揺してる子もたくさんいますから」と、若い選手たちを気づかっている。

 

「どっちが先に1軍で出るか」と同級生に向けた言葉も、「球界を代表する捕手になりたい」という目標も、まだ始まったばかりだった。

子どもに野球をさせている親として、それが悔しくてならない。

背番号60の捕手、野上士耀の冥福を心から祈りたい。