『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』が話題になってるが、そこでよく引き合いにだされるのが東野圭吾である。

かわいいの代名詞ちいかわと、日本ミステリー界の大御所作家。

本来なら書店の別フロアにいるはずの2つが、なぜか同じ棚で語られているのか。

 

先に答えを言ってしまうと、両作品に共通するのが「罪と罰」だ。

 

なぜかわいいキャラクター映画に、そんな重厚なテーゼが流れているのか?

今回もネタバレなしで、この興味深い共通点についてわかりやすく解説していこうと思う。

容疑者Xか白夜行か…

ことの始まりは、公開直後に広がった「東野圭吾の原作でちいかわをやってる感じ」という感想だった。

事前知識なしで観に行った人の一言が、ネットで大きく拡散されたのだ。

そこから雪崩を打つように、本好きたちの「どの作品に近いか」談義が始まった。

『真夏の方程式』は、あのガリレオシリーズの映画化作品だ。

ぶっちゃけ、まだ観てない人は観てほしい作品なのだが、よそ者が善悪で裁いていいのか、という葛藤について挙げてくるあたり、かなり具体的なところを突いている。

また、『白夜行』派もいた。

東野作品の中でも屈指の「誰も救われない」大長編を挙げてくる、なかなかの本気度だ。

そして『容疑者Xの献身』に至っては、この例え合戦の最大派閥と言っていい。

ついには、ロシア文学の重鎮・ドストエフスキーである。

おいおい、ちいかわの話はどこへ行った。

なにせ『罪と罰』の本家まで引っ張り出されてくるのだから、この映画の後味はもうただ事ではない。

 

ここで面白いのは、例えに挙がる作家や作品はバラバラなのに全員が同じ一点を指していることだ。

物語の中身ではなく、観終わったあとの気持ち。

いわゆる「読後感」の話をしているのである。

では、その読後感の正体とは何なのか、さらに進めていこう。

真相を暴いても誰も幸せにならない

ここにひとつ面白いポストがあった。

見事な言語化だと思う。

この7つの項目、東野作品を読んできた人間には心当たりがありすぎるのだ。

僕も『容疑者Xの献身』や『白夜行』あたりは読んできた口なので、これを見た瞬間に膝を打ってしまった。

 

ここからは、この整理を借りつつ、東野ミステリーの構造を僕なりに噛み砕いてみたい。

東野作品の多くは、犯人が誰かを当てて終わる話ではない。

物語の重心は「誰がやったか」ではなく、「なぜ、その人がやってしまったのか」に置かれている。

しかも、その動機の出発点が悪意ではないのだ。

誰かを愛してしまったこと、誰かを守りたかったこと——人間として真っ当な感情が、悲劇の発端になる。

だから真相にたどり着いた瞬間、読者は困ってしまう。

悪者を見つけてスッキリするはずだったのに、そこに立っていたのは裁く気になれない犯人だった、という構造である。

時代劇で言えば、水戸黄門は印籠が出たら一件落着だ。

ところが東野ミステリーは、印籠が出たところから本当の話が始まる

真相は明らかになった。

で、誰か幸せになったのか?

誰もなっていない。

それどころか罪を犯した人間には、法律の刑罰よりずっと重い罰——自分の罪と一生向き合い続ける罰——が残される。

これが「罪と罰」のテーゼであり、読み終えたあとの、あのやるせないのに忘れられない後味の正体だと思っている。

 

そして、問題はここから。

この重たいテーゼを、あのかわいいちいかわの映画がやってのけている、というのがどういうことなのか。

さらに深掘っていこう。

かわいい顔で罪と罰をやってくる

公式が発表している範囲であらすじをおさらいしておくと、こうだ。

ちいかわたちが怪しげな招待状に誘われて特別な島へ行き、巨大なセイレーンが島民を次々と連れ去っている事実を知らされ、島に隠された本当の「ひみつ」に近づいていく——。

「なんだ、よくある冒険ものじゃないか」

多くの人はリラックスして席につく。

ところが観終わった人たちは、激しい下痢でトイレに籠もっていたのかのような顔をして劇場から出てくるのだ。

そして着地する先は、やはり『容疑者Xの献身』なのである。

 

ネタバレになるので中身には触れないが、輪郭だけ言うと、この映画には「悪者を見つけて倒したら解決」で終われない事情が仕込まれている。

誰かの側に立てば、別の誰かの痛みが見えてくる。

戦争の本質が『正義』と『もうひとつの正義』というように、正しさで裁き切ろうとしてもそれができないことに愕然としてしまう。

観終わったあとに残るのは「面白かった」という余韻ではなく、「じゃあ、どうすればよかったのか」という宿題なのだ。

この宿題の残し方こそ、東野ミステリーが何十年もやってきた読後感の作り方そのものだと思う。

入口ではかわいい顔をして誘っておいて、帰りに『罪と罰』という重い手土産を差し出してくる。

羊の皮を被った狼ならぬ、ちいかわの皮を被った東野圭吾というわけだ。

 

ちなみに、なぜ子供向けの夏休み映画でここまでやれてしまうのか——という作り手側の謎は、前回の記事で書いたのでそちらに譲ろうと思う。

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湊かなえ本人まで動き出した

ところで、この例え合戦には第二の派閥が存在する。

湊かなえ『告白』派だ。

『告白』はデビュー作にして本屋大賞に輝いた大ベストセラーで、読んだあとに嫌な気持ちがどっしり残る「イヤミス」というジャンルの代表格である。

ちいかわの後味を、あの読後の重さに例える人が続出しているのだ。

東野圭吾と湊かなえのMIX。

ちいかわなんぞ歯牙にもかけなかった読書好きも、そう言われると耳がピクッとなってしまう組み合わせだ。

観終わった家族から言葉を奪っていく子供向け映画とは、いったい何なのか?

 

そして、ここでひとつ面白いことが起きる。

「ちいかわの後味は湊かなえ」という声が広がりに広がった結果、湊かなえ本人に届いてしまったのだ。

本人が自身のSNSで、映画の感想に「湊かなえ」がいっぱい登場していることに触れ、「新刊キャンペーンが終わったら、観に行こう」という趣旨の投稿をしたらしい。

教室でモノマネをしていたら、本人が後ろの扉から入ってきたバラエティー番組みたいな展開だ。

思わず笑ってしまったが、考えてみればすごいことになってきた。

イヤミスの女王と呼ばれる作家が、自分の名前で例えられた映画をこれから観に行くのだ。

観たあとに何と言うのか、こんなに続きが気になる映画レビューの予告があるだろうか。

なぜ嫌な後味をわざわざ浴びに行くのか

最後に、なぜここまで人が引き寄せられるのか、という話をしたい。

その答えは映画の側ではなく、僕ら人間の側にあると睨んでいる。

 

世の中には、観た人が「二度と観たくない」と言いながら、なぜか一生語り継いでしまう映画がある。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ミスト』が、その代表だろう。

観終わったあと、しばらく席から立ち上がれない。

それなのに、何年経っても「あれはすごかった」と語り草になり続ける。

本の世界なら、イヤミスがまさにそれだ。

読み終えたら落ち込むと分かっていて『告白』を手に取り、誰も救われないと知っていて『白夜行』のページをめくる。

嫌な後味を、わざわざお金と時間を払って浴びに行くのである。

我ながら、人間とは意味のわからない生き物だと思う。

 

実際のところ、ハッピーエンドの爽快感が3日で消えるのに対し、重い物語の後味は10年経っても体から抜けないものだ。

人が一生覚えているのは、心を撫でてくれた話より、心に傷跡を残した話のほうなのである。

だからたまに、無性にああいう重さに浸りたくなる瞬間が、人間にはやってくるのだろう。

 

そう考えると、「ちいかわなのに東野圭吾味がある」という口コミがどれほど強力な宣伝文句だったかがわかる。

その証拠に、真っ先に動き出したのは本好きたちだった。

ちいかわを一度も見たことのない読書家たちが、映画館へ向かい始めているのだ。

ちいかわという壮大なギミックが、今回の『人魚の島のひみつ』にエグいくらい効いてしまった。

そこが堪らなく面白いではないか。

 

つまりこの映画は、重いものに浸りたいすべての人間のための映画であるとも言える。

あのかわいいビジュアルに誘われ、『罪と罰』という重厚なテーゼを持ち帰る。

内省するもよし。

友人と語り合うもよし。

SNSで発信するもよし。

そういう意味で、これは万人に勧められる夏休み映画なのかもしれない。

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