青森山田高校のサッカー部で、部員十数人が寮や学校の敷地内で飲酒・喫煙をしていたことが発覚し、停学になった。

それでも、7月25日から福島県で始まるインターハイは辞退しないという。

学校は「個の責任だ」として、処分を受けた生徒だけをメンバーから外し、残りの選手で大会に出る、と説明している。

 

このニュースが流れた瞬間、ネットは大きくざわついた。

「真面目にやってきた子を守る、いい判断じゃないか」という声と、「十数人もやらかして”個の責任”はさすがに無理があるだろう」という声が、きれいに真っ二つに割れている。

 

僕の子どももスポーツをやっているので、この手のニュースはどうしても他人事として読めない。

強豪校の名前、十数人の停学、それでも大会には出る。

正直、「うーん」と唸ってしまった人は多いんじゃないだろうか。

今回は、この「個の責任」という言葉になぜこれほど賛否が集まるのか、その奥で本当に問われているものは何なのかを、わかりやすく整理していこうと思う。

青森山田高校サッカー部で再び起きた飲酒・喫煙問題

学校の発表によると、飲酒と喫煙が発覚したのは6月のこと。

場所は部の寮や学校の敷地内で、処分を受けたのは十数人にのぼる。

しかも、その中には主力選手も含まれていたという。

ただの気の緩みで片づけるには、少し人数も顔ぶれも大きすぎる話だ。

そもそも青森山田サッカー部といえば、全国高校サッカー選手権で4回の優勝を誇る、押しも押されもせぬ名門である。

 

全員が停学処分となり、花田惇校長は「保護者、地域の皆様をはじめ多くの方々にご心配とご迷惑をお掛けしております」と頭を下げた。

「教育上重大な事案」として重く受け止めている、とも語っている。

そのうえで学校が出した結論が、インターハイは辞退しない、というものだった。

「苦渋の決断」としながらも、飲酒・喫煙は「個人の問題」であって、部活動や競技実績によって処分の扱いを変えることはしない。

処分を受けた生徒はメンバーから外すが、問題のない大半の生徒は予定どおり大会に出す。

これが学校の立場である。

 

ここで多くの人が引っかかったのが、「再び」という部分だ。

実はこのサッカー部、2021年にも寮の冷蔵庫から缶ビールや焼酎が見つかり、部員約10人が停学になっている。

同じ寮で、ほとんど同じことが、数年越しに繰り返されたのだ。

同じ寮、同じお酒、そして同じような人数。

まるで数年前の出来事をもう一度再生したかのような既視感に、「またか」という声が広がったのも無理はない。

「個の責任」という判断に賛否が分かれた理由

面白いのは、この一件で世間の意見が真っ二つに割れたこと、それ自体だ。

どちらの言い分にも、うなずける部分がちゃんとある。

だからこそ、片方を「正義」、もう片方を「甘い」と簡単に切り捨てられない。

賛否がこれだけ拮抗するとき、その裂け目には、僕らが普段は見て見ぬふりをしている本音が隠れている。

まずは、両方の言い分を、それぞれの側から丁寧に見ていきたい。

 

学校が個別処分を選んだ理由

学校の判断を頭ごなしに「保身だ」と決めつける前に、一度その立場に立ってみたい。

もし連帯責任でチーム全体が辞退となれば、飲酒にも喫煙にも一切関わっていない部員まで、まとめて夏の舞台を失うことになる。

何も悪いことをしていない子が、他人の過ちで大会を奪われる

これはこれで、相当に酷な話だ。

 

学校が「部活動や競技実績等によって取扱いを変えることはありません」とわざわざ明言したのも、裏を返せば「強豪だから見逃した」と言わせないための線引きだったのだろう。

処分は処分として個別に下す。

そのうえで、罪のない大多数の機会は守る。

理屈だけを取り出せば、たしかに筋は通っている。

ネットにも、「個の責任でいい」と一定の理解を示す声はある。

ただ、その多くには「とはいえ」という但し書きがくっついていた。

この但し書きこそが、次の反論へとつながっていく。

 

「辞退すべき」という意見が多い背景

一方で、「それでも辞退すべきだ」という声のほうが、数の上では目立っている。

理由はいたってシンプルで、「十数人」という規模だ。

一人二人のはみ出しなら個人の問題で説明もつくが、十数人ともなると、それはもう個人の資質ではなく、場の空気の話になってくる

この軽妙なツッコミには、思わず笑いつつ、うなずいてしまった。

さらに背景にあるのが、過去との比較だ。

これまで、ほんの数人の不祥事で甲子園や全国大会そのものを辞退してきた学校は、決して少なくない。

あの学校は連帯責任で消えたのに、なぜ青森山田は”個の責任”で出られるのか

この線引きの違いから生まれる不公平感が、賛否の「否」の側を大きくしている。

 

それに、サッカーはチームスポーツだ。

十数人が抜けた穴を、残った部員だけで埋めながら全国の舞台に立つ。

そこには「不祥事を出したチームが、それでも勝ちにいく」という、なんとも据わりの悪い構図がついて回る。

勝てば勝ったで「勝てばいいのか」と言われかねず、その居心地の悪さは、たぶん優勝したところで消えてはくれない。

 

無関係な部員をどう守るか

ここで、論点を一段だけずらして考えてみたい。

「個の責任か、連帯責任か」という対立は、突きつめれば、どちらも”処分をどう配るか”の話でしかない。

本当にいちばん宙ぶらりんなのは、真面目にやってきた部員たちのほうである。

飲酒も喫煙もしていないのに、なぜか自分たちの夏がざわつき始めている子たちだ。

 

彼らからすれば、たまったものではない。

チームメイトの誰かがやらかしたせいで、自分たちの夏に、望んでもいない注目が集まってしまう。

勝てば「不祥事があったのに」と言われ、負ければ「やっぱり」と言われる。

どちらに転んでも、素直には喜べない大会になりかねない。

この「真面目な子を守ってあげたい」という気持ち自体は、きっと学校もネットも同じ方向を向いている。

ただ、ひとつ気になる報道もある。

一部では、実際には飲酒や喫煙はせず、その場で「様子を見ていただけ」の部員まで処分の対象になった、とも伝えられているのだ。

もしこれが本当なら、「どこからが個の責任なのか」という線引きは、僕らが思うよりずっと曖昧だということになる。

守るべき子と、罰するべき子。

その境界を引く手のなかに、この学校の本音がにじんでいる気がしてならない。

再発だからこそ問われる管理体制

処分を「個」で配るか「連帯」で配るか。

その議論の手前に、もっと大事な問いが置き去りにされている気がしてならない。

なぜ、同じ寮で、同じことが二度も起きたのか。

やはり、そこが引っかかる…。

 

考えてみてほしい。

2021年に一度、寮の冷蔵庫から酒が出てきて大騒ぎになった。

普通なら、そこで寮の管理はぐっと厳しくなるはずである。

それでも数年後、また十数人が同じ寮で飲酒・喫煙をしていた。

これはもう、一人ひとりの心がけの問題として片づけるには、いくらなんでも無理がないだろうか

 

人は、置かれた場所の空気に、あっけないほど流される生き物だ。

クラスの何人かがこっそりズルをしても誰も咎めない空気ができあがると、真面目な子ほど「言い出せない」側に回ってしまう。

閉じた寮の中で起きていることも、根っこはあれとまったく同じである。

「先輩も昔からやっていた」という空気が当たり前になっていれば、そこで一人だけ断るほうが、よほど勇気がいる

だとすれば、問われるべきは「やった十数人の資質」だけではないはずだ。

その空気を長いあいだ放置してきた、大人たちの側の管理体制。

ネットのこうした声は、言い回しこそ違えど、どれも同じ一点を突いている。

生徒に「個の責任」を求めるなら、大人の側も自分たちの「個の責任」から逃げられないはずだ、と。

これは、綺麗事で言っているわけではないと思う。

 

「個の責任」で幕を引けば、その場はいったん静かに収まる。

だが、収まったように見えるだけで、寮の空気そのものは何ひとつ変わっていない。

そしてまた数年後、別の代の部員が、同じ冷蔵庫の前で同じことを繰り返す。

二度あったことを三度目にしないために要るのは、犯人捜しではなく、空気そのものを入れ替える仕組みのほうだ。

 

学校は再発防止策として、次のような対策を挙げている。

  • 夜間の確認体制の見直しと強化
  • 寮の巡回体制の充実
  • 寮生だけでなく全校生徒への規範教育・飲酒喫煙防止教育
  • 保護者との連携強化

どれも、言葉としては何も間違っていない。

ただ、2021年のあとにも、きっとよく似た言葉が並んでいたはずなのだ。

本当に問われているのは、対策の”文言”ではなく、それを何年も続けられる”本気度”のほうなのだと思う。

 

僕も子どもをスポーツに預ける親として、正直な気持ちを言えば、勝ち負けよりも先に「ちゃんと見ていてくれているか」を知りたい。

部活は、勝つためだけの場所じゃない。

理不尽なこと、ズルいこと、逃げたくなること。

そういうものと、どう向き合うかを覚えていく場所でもある。

その入り口に立つ子どもたちを、いちばん近くで見ていてやるのが、本来は大人の役目のはず。

だからこそ、「個の責任」という言葉が、大人が自分の責任から目をそらすための便利な蓋にならないことを願っている。

インターハイで、青森山田が実際にどんなメンバーで、どんな顔をしてピッチに立つのか。

そして、この夏が終わったあと、あの寮の空気は本当に変わるのか。

そこまで見届けて、ようやくこの一件の答え合わせができるのだろう。